ぬけがら

日焼けもしていないのに「一皮むけたね」と言われるようになった。一皮って20代のことだろうか。30歳になって、自分ではわからなくても周りには何か変わったように見えているのかもしれない。こっちはアンケートで20代にマルをつけなくなったんだな、くらいの生まれたての自覚だというのに。ドモホルンリンクルを始めても良いお年頃になった。


「白黒思考」
「甘やかしと愛情の違いがわからない」
「自分の問題より相手の問題を優先的に自分の問題としてとらえ、解決することでしか満たされない」
「自分を信じることができない」

役割の固定された共依存関係に陥りやすい人の特徴らしい。

わたしも誰かを助けようとばかりしていた。

自分のことがどうにもならないと考えているからこそ、自分の問題より他人の問題に目を向ける。自分のことは頑張っても何も褒められないけど、他人のために頑張れば感謝がもらえる。だからそっちにばかり時間を使う。

思えばわたしの目の前にはいつも問題があって、誰かに頼られていた。

その誰かは家族だった時も恋人だった時も友人だった時もあったけど、わたしを頼ってくる人が誰もいないっていう状況があまり無かった。

「特定の誰かを助けたい!」と思ってしたことは空回りだったこともあった。「助けたいって思う」=「相手を助けさせてほしいと相手に求めてる」ってことだ。求めているという自覚を持たないと相手の自由をただ奪ってしまう。

それに何かを「してくれる人」として役割が固定されてしまうと、相手からどんどんリクエストされる。いくら与えても満たされない人はいる。穴のあいたバケツに水を注ぎ続けるようなものだ。それに応えられなくなって梯子を外した瞬間に糾弾される。嫌われてしまったんだねと。

誰かに必要とされる代償としてわたしの進もうとした人生をめちゃくちゃにされても、それが当たり前なんだと思ってた。昔からずっとそうだったから。

でも困っている人を見たら助けるのが当たり前って本当に本当なんだろうか。その場で目の前の人を助けようとするのが、今わたしのやるべきことなんだろうか。

誰かを助けたいって強く思う時は、自分が助けてほしい時だった。でも誰が助けてくれるのか思いつかなかったから、言えなかった。きっと本当は誰かを助けている場合じゃなかったんだろう。

つい最近のことだ。自分の関わっている仕事の効率や質をただ良くしたくて、勇気を出して問題を指摘したり、積極的に動いたりした。出来上がってから「助かったよ」とたくさんの人に言われてとても驚いた。考えたり動いたりしている間、わたしは誰の顔も見てなかったのに。

今のわたしは、自分のためだけの生活をしている。

食べたいごはんを自分のために作って、ひとりで食べて、着たい服を買って自分で洗濯して、生きるために仕事をして、自分の趣味で染まった部屋にただいまと花を買って帰る。お弁当箱を洗い、好きな本を読み、お風呂場で空想に耽り、黙々と筋トレをしてひとりで眠りにつく。そんな生活を誰も読まない日記につらつらと書いている。

からしていた悩み相談を聞くことも一時期やめていたけど、ぼちぼち再開した。「悩みを解決してあげたい」みたいなのは無い。わたしじゃなくてもどこかに答えはあって、それを相手が自分で見つけられる過程にいるんだろうなと思っている。

だからアドバイスでもなんでもなく、聞かれた時は「わたしだったらこうするかも……」って想像する。いろんな経験を思い出して自分語りをする。相手が納得して勝手に感謝されることもある。何が良かったのかは分からない。でも相手が得たものがあったなら良かったなと思う。何も失わない。ドラマの録画1話分の時間が翌日に持ち越されただけだ。

誰の世界にも介入できない、誰の役にも立てず何も生み出せないのはさみしいことなのかもしれない。でも今は自分の世界に誰も介入してこなくなった自由を楽しもうと思う。

誰かの役に立つために生きてるわけじゃない。生活が毎日続いてるから生きてる。生きなくたっていいじゃない暮らしましょうよ、ってドラマで誰かが言ってた。そうだよ。暮らそう。ただの穏やかで平凡な、すてきな毎日を。

わたしの好きな人達が、自分と関係ない世界でただ笑って暮らしていることを願ってる。別に願ってはないんだけど。笑っていなくても、泣いているよりは怒ってる方がいいなと思う。

会わなくても言葉を交わさなくてもわたしのことなんか忘れていても、縁があればいつかきっと繋がる。良い思い出は心の中に残り続ける。

苦しくて楽しかった20代のむけた一皮をしまって、まだ柔らかくて頼りないまっさらな30代のわたしを穏やかに大切に育てていきたい。きっと良いものになる予感がしている。